賃金債権の義務履行地、つまり、会社が従業員に支払う給料、賞与等の支払いがなされるべき場所はどこでしょうか。この論点は、賃金請求訴訟を提起できる裁判所はどこか、に影響し、とくに労働者が退職後に提訴する場合に大きな問題となることがあります。
一般に訴訟は、被告の住所地を管轄する裁判所に対して提起することができます(民事訴訟法4条)。しかし、東京で働いていた労働者が退職して九州や北海道の実家に帰った後に、元の勤務先を被告とする裁判を起こそうとする場合、東京地裁に提訴しなければならないとすれば、交通費がバカにならず、弁護士に依頼すればその旅費・日当の負担も生じますので、ために提訴を断念せざるを得ない、といったことになりかねません。
この点、民事訴訟法は、「財産権上の訴え」について「義務履行地」を管轄する裁判所に提訴することを認めています(同法5条1号)。
そして、民法484条は、「特定物の引渡し」以外の債権について、「別段の意思表示」がないときは、「債権者の現在の住所」が弁済の場所となるものと定めています。一般に金銭債権は、「特定物の引渡し」を内容とする債権ではありませんんから、当事者間にとくに合意がない限り、「債権者の現在の住所」が弁済の場所、すなわち「義務履行地」になります。
たとえば、不法行為に基づく損害賠償請求権の義務履行地は、債権者である被害者の現在の住所であり(秋山幹男他『コンメンタール民事訴訟法Ⅰ〔第2版追補版〕』111頁)、この点については争いはありません。
賃金債権も金銭債権の一種ですから、その義務履行地は債権者、すなわち労働者の現在の住所であることになりそうです。そうであれば、労働者の現在の住所を管轄する裁判所に提訴できる、ことになります。実際、賃金債権の一種である退職金債権について、この理を認めた裁判例があります(東高決S60.3.20東高民時報36巻3号40頁)。
ところが、古い裁判例には、この理を否定し、「給料債権」の義務履行地は使用者の営業所であるとしたものがあります(東高決S38.1.24下民集14巻1号58頁)。
同裁判例は、「給料債権」について民法484条の適用は排除されるとし、その理由として「給料債権は従業員が営業所において労務に従事し、その対価として給料を請求するものであるから・・・その支払場所は双方に好都合である使用者の営業所であると解するのが相当である」と述べています。
裁判所が実定法の適用を排除しようというのに、一般的に好都合という生の利益状況だけが理由であってよいのかは大いに疑問です。
この点、ドイツ(西ドイツ)の法制では「労働報酬」の履行場所について「使用者の事業所の所在地」であることが実定法により導かれるようです(小西國友「賃金の口座払いに関する法的諸問題(一)」(労判376号4頁)。そのことが上記裁判例の見解の背景にあるのかも知れません。
しかし、ここは日本です。日本では民法484条に基づいて債権者の現在の住所が義務履行地となることが導かれるのですから、ドイツと同じ結論をとるためには特別な論理が必要です。
上記S38年東高決の論理を善解するなら、「使用者の営業所を支払場所とすることが双方に好都合であるから、その旨の黙示の合意があると推認でき、この合意が当事者の『別段の意思表示』にあたる」というものと理解するほかないでしょう。
しかし、賃金の支払方法につき現金手渡しが当たり前であった時代であればいざしらず、現代社会では口座振込みが一般化しており、にもかかわらず労使間で「支払場所を使用者の営業所とする旨の黙示の合意」が当然に成立するとの推認は、推認の基礎となるべき社会的事実が存在しないというべきでしょう。すなわち、少なくとも現代においては同裁判例の見解には正当な根拠がなく、賛同できません。
以上により、現行法のもとでは、賃金債権の義務履行地は、当事者間に特約がない限り、労働者の現在の住所であるとするのが論理的必然であると考えます。
私見が正しいとすれば、労働者は、債務者(会社)の営業所の所在地がどこであれ、自身の住所地を管轄する裁判所に対し、賃金請求の訴訟を提起できることになります。